ヨガの教えと瞑想

書籍

ヨガの教えをもとに、瞑想のやり方や日常的な心のとらえ方を解説しています。思考を止める方法や怒りが起きる原因を取り除く方法などをご紹介しています。心について理解を深め、瞑想を日常に取り入れるための入門書です。

目次


はじめに
01 瞑想とは何か
02 心とは何か
03 心についての理解
04思考の働きと問題
05 瞑想の実践
06 瞑想を深める
07『ヨーガ・スートラ』を読む
08 ヨガの幸福論
09心の幸福と問題点
10瞑想の至福
11瞑想の注意点
おわりに
瞑想の実践STEP1
瞑想の実践STEP2
瞑想の実践STEP3

はじめに

 本書は、これから瞑想を始めたいと思っている方や、実際にやってはみたけれど上手く瞑想できないといった方に向けて、瞑想の基本的なやり方、理論を紹介するものです。瞑想には、マントラを唱えたり、何かの像をイメージしたりと様々なものがありますが、本書ではヨガの教えをもとに、瞑想とは何か、瞑想にどのように取り組めば良いかについて解説していきたいと思います。また、長い時間座るための瞑想法ではなく、日常生活の中で実践しやすい瞑想法についてお話ししていきたいと思います。
 瞑想は単に目を閉じて座っていればよいというものではなく、理論をよく理解して実践する必要があります。ヨガの教えは、そのための非常に優れたテキストとなります。ヨガと言えば、現代ではエクササイズの一種として広く知られていますが、古くはそのようなポーズをとる運動ではありませんでした。ヨガの古い経典である『ヨーガ・スートラ』には、ポーズの話は一切出てきません。では何について書かれているかと言えば、心や瞑想についてなのです。
 ヨガについて、インドの聖者たちはよく「ヨガとは心の科学である」と表現しています。『ヨーガ・スートラ』を読むと、そこには確かにヨガの心理学と言えるような哲学的体系が存在しています。しかし、現代のヨガといえばポーズの練習が多く、そのようなヨガの教えを耳にすることはほとんどありません。では、本来ヨガは今行われているようなポーズの練習ではないにもかかわらず、なぜそのような認識が広まってしまったのでしょうか?
 その理由の一つは、方法や効果が分かりやすいものを好む現代人の傾向にあるでしょう。ヨガの実践的な面としてポーズを行うことは、体が変化することで効果が分かりやすいですし、なにより実践しやすいからです。しかし、ヨガの教えや瞑想はこの点がなかなか理解しづらいという問題があります。
「ヨガの教えは素晴らしいのかもしれませんが、実際何をすればよいのでしょう」
「瞑想をするために目を閉じて座ってはみたけど、その後どうすればいいかよくわかりません」
こういった疑問を持たれる方も少なくありません。
 このようなわけで、本書が目的としているのは、単にヨガの教えや瞑想を分かりやすく解説するということだけではなく、ヨガの教えや瞑想の実践的な面をご紹介することです。具体的な方法については瞑想の実践STEP1〜3に書きましたが、これは心についての実践的なトレーニングです。
 一つの例として、他人と比べることを完全にやめる、という実践があります。私たちは普段何気なく他人と比較して怒りや嫉妬、喜びなどの感情を起こしていますが、このような心の動きを完全に止めてしまうのです。こうして、他人と比較するということがなくなれば、考えている時間を大幅に減らすことができ、日常生活は非常に快適なものとなります。しかし、これは簡単なことではありません。気を抜くと、すぐに頭の中で他人との比較が始まってしまうからです。
 心は私たちの意志を全く尊重してはくれません。心とは言わば、好き勝手動き回る動物のようなものだからです。ひとたびそれを飼い慣らそうと思えば、大変な努力が必要となります。ブッダは『法句経』の中で、「戦場で百万人を相手に勝利をおさめるより、自分に勝利する人の方が優れている」と述べていますが、まさしくその通りだと思います。つまり、それほど心は扱いづらいものだからです。
 実際、心を自分の意志で支配するという課題に取り組んでみると、それがいかに困難なものか分かります。それは綺麗にヨガのポーズをとるより、はるかに難しい練習と熱意を必要とするでしょう。ですから、これは非常に具体的な実践を含んでいるのです。そして、この問題について真剣に取り組まなければ、私たち心に平安が訪れることはありません。
 それではこれから、『ヨーガ・スートラ』を紐解きながら、ヨガの教えと瞑想について学んでいきましょう。

 

 

01 瞑想とは何か

 

 それではまず、瞑想について考えてみましょう。「瞑想とは何か?」と聞かれると皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか。「無になる」「雑念を止める」「宇宙意識と一体になる」など、様々な考え方があると思います。しかし、なぜ瞑想をするのか、どんな効果や目的があるのかを明確に説明するのはなかなか難しいのではないでしょうか。
 瞑想がどういったものか分かりづらい点の一つとして、瞑想は内的な体験なので、その人の内側で何が起きているかということを他人が理解するのはなかなか難しいからです。例えばヨガのポーズであれば、他人のポーズを見て「こんなふうにポーズがとれれば良いなぁ」と参考にすることができますが、上手く瞑想できている人の心の様子を見て参考にすることはできません。また、指導する場合でも、ヨガのポーズであれば「ここは骨盤を正面に」とか「足の角度をちょっと開いてみるといいですよ」というように、その人の体を見ながらアドバイスすることができますが、瞑想に関してはその人の心の様子を見ながらアドバイスすることはできません。
 ですから、ただ何となく座るのではなく、「何に集中するのか」「瞑想中どのような状態を保てば良いのか」「瞑想の目的とは何なのか」ということについて、まずは皆さん一人一人がしっかりと理解する必要があります。また、「心はなぜ勝手に動き出し雑念が止められないのか」「瞑想によってなぜ至福感が起きてくるのか」という点に対しても理論的に、そして哲学的に考えてみることがとても大切です。結局のところ、どう座るかはあまり大きな問題ではありません。結跏趺坐けっかふざ(あぐらの姿勢)でいかにも瞑想らしく座れていたとしても、頭の中が様々な雑念やビジョンに囚われていては意味がありませんし、逆に、電車に乗っているときや歩きながらでも完全に集中した瞑想をすることができるからです。
 それでは、これから瞑想について考えてみましょう。

 

ラージャ・ヨガと八支則

 

 さて、これから瞑想について話を進めていく前に、その前提となるヨガの教え、最初に触れた『ヨーガ・スートラ』を簡単にご紹介しておきましょう。
 『ヨーガ・スートラ』はヨガの根本的な経典の一つで、古代インドの聖者パタンジャリによって4~5世紀ごろ編纂へんさんされたと言われています。編纂とは「まとめられた」という意味で、つまり、ヨガの教え自体はこの本が書かれる前から存在していたことになります。この本に書かれたヨガの行法はラージャ・ヨガと呼ばれています。ラージャとは王様という意味で、ラージャ・ヨガはヨガの王道というようなニュアンスになります。ラージャ・ヨガは瞑想のためのヨガで、瞑想の完成であるサマーディ(三昧ざんまい)までを八つの部門(八支則はっしそく)で示しています。これはアシュタンガ・ヨガとも呼ばれます。その八つとは、

⑴ ヤマ(してはいけないこと)
 ①アヒムサ(暴力や殺生をしてはいけない)
 ②サティヤ(嘘をついてはいけない)
 ③アスティーヤ(盗んではいけない)
 ④ブラフマチャリア(欲を出してはいけない)
 ⑤アパリグラハ(むさぼってはいけない)
⑵ ニヤマ(進んで行うこと)
 ①シャウチャ(体や身の回りを清潔にする)
 ②サントーシャ(今あるもので満足する)
 ③タパス(忍耐する)
 ④スワディヤーヤ(自己について学ぶ・聖典などの学習)
 ⑤イーシュワラ・プラニダーナ(信仰心を持つ)
⑶ アーサナ(瞑想のための快適な座法)
⑷ プラーナヤーマ(呼吸を整える)
⑸ プラティヤーハーラ(感覚を制御する)
⑹ ダーラナ(ある対象に対して一心に集中する)
⑺ ディヤーナ(禅定ぜんじょう・努力なしに絶え間ない集中が継続される)
⑻サマーディ(三昧ざんまい・解脱の境地)

となります。
 最初は、暴力をふるってはいけない、他人の物を盗んではいけないといった道徳的な禁止事項であるヤマがあり、次に聖典の学習や信仰を持つこと、体や身の回りを清潔にするといった奨励すべき事柄としてニヤマがあります。そして、瞑想のための座法としてのアーサナ(現代ではヨガのポーズ)、呼吸法としてプラーナーヤーマ、感覚を制御するプラティヤーハーラ、最後にサンヤマと呼ばれる瞑想の三つの段階、ダーラナ(一心集中)、ディヤーナ(禅定)、サマーディ(三昧)があります。
 ラージャ・ヨガで想定している瞑想は長い時間座ることを前提としているので、そのための準備が欠かせません。例えば、結跏趺坐けっかふざで長い時間座ろうと思えば、足首の柔軟性や上体を真っ直ぐ支えるための筋力をつけておく必要があります。このために、瞑想に取り組む前にヨガのポーズを練習しておかなければいけません。同様に、呼吸を安定したものにするために、プラーナヤーマを練習する必要があります。
 アーサナとプラーナヤーマは主に身体に関するものですが、瞑想は単に体の準備ができれば良いというだけではなく、心についての準備も必要です。例えば、日常的にタバコを吸っていれば瞑想中でも喫煙の欲求が起きてくるでしょうし、前日にお酒をたくさん飲んでいれば集中力は非常に散漫なものになってしまいます。他にも、誰かに対して恨みをいだいていたり、好きな相手などに対する執着も瞑想の妨げになります。また、人に暴力をふるうなどはもちろんいけませんが、暴力的な漫画やゲームをしない、サスペンスなどのドラマや性的な欲望を起こすようなものを見ない、質素な食事を心がけ美食や飲酒などの欲求を遠ざけるなど、日常生活を見直し瞑想に向く落ち着いた心を養っていきます。これは主にヤマに示されています。
 この落ち着いた心を養うために、ニヤマにも取り組んでいきます。ヤマは避けるべき事でしたが、ニヤマは進んで行うべき事です。例えば、瞑想をする部屋がごちゃごちゃ散らかっていては瞑想に集中できませんから、部屋をできるだけ片付けておく必要があります。このように、身の回りを清潔にする、今あるもので満足する、聖典などを読んで自分についての理解を深めておく、神に祈るなど、日常的にできるだけ実践していきます。
 5番目のプラティヤーハーラは感覚の制御です。心は外的な印象に強く影響を受けています。例えば、テレビで焼肉を食べるシーンを見ると自分もお肉が食べたくなったり、魅力的な相手を見ると性欲がわくといった経験をしたことはないでしょうか。このように外的な印象によって心は動揺するので、これらを自分の感覚器官から遠ざけるようにすると欲望は起きづらくなります。具体的に言えば、欲望が生じる物を見ないとか、そういった場所に行かないようにするのです。また、瞑想中はできるだけ微細な感覚、呼吸をするときに空気が鼻を通過する感覚や、体に感じるかすかな風や体温などに集中すると良いでしょう。
 以上は瞑想のための準備(もちろん瞑想のためだけでなく、日常的に気を付けるべきことでもありますが)として行うものですが、社会的な生活をおくる私たちには、このような規則を守ることはなかなか難しいと思われたのではないでしょうか。ラージャ・ヨガは、その人の人生を通して瞑想を完成させようとするものなので、どちらかと言えば、出家者(お坊さん)の修行法なのです。もちろん、長い時間瞑想しようと思えば、これらの規則に沿っている方がやりやすいということが実際お分かりになるでしょう。しかし、在家者(社会生活の中で修行する人)であれば、そもそも瞑想のために長い時間を割くことはできない訳ですから、本書では日常生活の中で行うことができる瞑想の方法についてお話ししていきたいと思います。

 

瞑想とは何か

 

 それでは次に、瞑想とは何かについて考えてみましょう。ラージャ・ヨガの瞑想の最初の段階はダーラナです。ダーラナについて『ヨーガ・スートラ』で次のように述べられています。

ダーラナとは心を一つの場所や対象、概念に結びつけておくことである。〔3章1節〕

 ですから、「瞑想とは何か」という問いに対して、まずは「心をある対象に集中すること」あるいは「心をある一点にとどめておく力」と考えてみましょう。これは、

⑴瞑想中に余計な雑念に振り回されないために、思考以外の対象に集中する。
⑵勉強や仕事など、ある対象に集中して効率を上げる。

という二つの意味でとらえることができます。
 それでは、これから瞑想について学んでいきますが、その前にまずは瞑想の対象となる心について理解を深めていきましょう。

 

 

02 心とは何か

 

 それでは、これから瞑想に取り組むにあたって、心とは何かについて考えてみましょう。例えば瞑想をするためにリラックスして座り、体の力を抜いて目を軽く閉じ、外に向いていた感覚を体の内側に向けていきます。次に、呼吸などに注意を向けて集中し、雑念を追い払おうとします。しかし、最初は呼吸に集中していたとしても、しばらくすると、「明日仕事で必要な書類あったな」とか、「あの用事を片付けておかなきゃ」「今日のご飯は何にしようかな」などと考え事が始まってしまいます。
 瞑想を始める前、私はよく「10分ぐらいは考え事を止めてみましょう」と生徒さんにお伝えしています。しかし、10分間座ってみると、実際はなかなか集中することができず、すぐ考え事やいろんなイメージの想起が始まってしまうことに気がつきます。これはなぜでしょうか? 瞑想を始める前は「よし、10分ぐらいは考え事を止めよう」と思っているのに、なぜ心の動きをなかなか止めることができないのでしょうか。
 はじめに結論から申し上げると、心はあなたのものではないからです。心はあなたの意志に反して勝手に動いています。私がこうお話しすると、多くの方が府に落ちない顔をされます。しかし、それは正直な反応だと思います。私たちは生まれてからこれまで、色々な考え事をしたり様々な選択をして、喜んだり悲しんだり悩んだりしてきました。このような心の働きが私のものでないとするなら、私とは一体何なのでしょうか? これが瞑想の最初の問題です。ヨガの教えでは、この「私とは何か?」を理解することが悟りだとされているからです。

 

私とは何か?

 

 では、「私とは何か?」について考えてみましょう。例えば「私」、つまり人間を全体で考えてみると、大きくは二つの要素があることが分かります。心と体ですね。体は目に見えるもの、心は目には見えませんが何かを欲しがったり考えたりする精神的な働きです。この二つ、体と心は私たちにとって全く自分らしいものです。朝起きて顔を洗うとき鏡で見ているこの顔、お風呂などに入ったときに見る体、これらはまさしく私そのものでしょう。そして、特に心はそうではないでしょうか。心が働くとき私たちの中では「私は今考えている」「私はこれが欲しい」「私は怒っている」このような印象が常に生まれています。
 しかしヨガの教えでは、この二つは私ではないと考えるのです。では何が私かと言えば、心や体を認識している「意識」が私なのです。一般的な心理学では、意識は心の一つの状態だと考えられています。しかし、ヨガの教えでは心や体を見ている意識が私の本質であり、心がその中で働いていると考えます。ここが大きな違いです。しかし、なぜ体も心も私ではないと言えるのでしょうか? この点についてもう少し考えてみましょう。

 

体は私か?

 

 まずは体について考えてみましょう。いつも見慣れている顔や体がありますが、これは本当に自分自身だと言えるでしょうか? ヨガに限らず東洋の哲学では、私たちの魂は輪廻すると考えています。この顔や体はこの人生のものですが、死ねば私たちはこの肉体から離れ次の体へと移っていきます。つまり、この体は魂が着る洋服のようなもので、毎日新しい洋服に着替えるように、毎生まいしょうごとに新しい肉体に取り替えられていくのです。ですから、この体はいずれ捨て去るものとしてとらえて、それを私の本質であるとは考えないのです。
 また、科学的な観点でも私たちの体は自分の所有物とは言えません。私たちの細胞は数年で全て入れ替わってしまい、実際は全く同じ体がずっと存在しているということはないからです。
 以上のように考えたとき、私の体は私の「物」ではありますが、私の「本質」ではないことが分かります。例えば、着ている洋服はいかにも私らしさを表現している物ですが、汚れたり穴が空いたら捨ててしまいます。このように、肉体はいずれ失われてしまう「物」なので、「私自身」ではないと考えることができます。

 

心は私か?

 

 次に、「心は私ではない」という点について考えてみましょう。すでに申し上げた通り、「心は私ではない」という考え方は現代の私たちにとってなかなか受け入れづらいものです。と言うのも、心が自分の意志に反して勝手に動いているということは、日常の生活の中ではなかなか気付きにくいことだからです。また、心は意識のすぐ近くで働いているので、この働きを自分だと混同しやすいのです。ですから、心の働きをできるだけ良く観察し、この誤解を解いていかなければいけません。
 では、私たちは本当に自分の意志で自由に心を動かしていると言えるでしょうか? 具体的に考えてみましょう。
 心の働きにはいくつかの性質がありますが、まず、体が感じる欲望を観察してみましょう。例えば、お腹が空くと「何か食べたいな」という欲求が起きてきます。このような心の働きは、自分自身で意図的に起こしたと言えるでしょうか。この場合、私たちは自分の意志で食べたいと思ったというよりは、体に空腹を感じたので心がそれに反応して「何か食べたいな」と思った、と言った方が正確です。また、テレビCMなどでビールを美味しそうに飲んでいる人を見ると、自分もビールを飲みたくなることがあります。このような場合も、ビールを美味しそうに飲む姿を見たので、ビールを飲みたいという欲求が起きます。もし、テレビでそのような映像を目にしなかったら、その瞬間ビールを飲みたいとは思わなかったでしょう。
 ですから、私たちは心を自分で動かしているというよりは、体や外界に反応して心が勝手に動いているということが実際に観察されるのです。次にもう少し別の視点から考えてみましょう。
 例えば、誰かに言われた嫌な一言がどうしても頭から離れないといった経験はないでしょうか。このようなとき、私たちはその言葉を忘れたい、もう気にしたくないと思っているにもかかわらず、心は度々その事に引き寄せられ、考え事を始めてしまいます。もし、私たちが自由に思考の対象を選ぶことができれば、悩みなど起きないでしょう。悩み事などすぐに忘れて、いつも楽しい事だけを考えていればよいからです。しかし、心が全く自分の自由にならないので、私たちは悩んだり悲しんだり落ち込んだりしてしまいます。
 上記のように考えてみると、私たちは自分の心をそれほど自由には扱えていないということが理解されるのではないでしょうか。これから瞑想を始めるにあたって、この点を理解しておくことはとても大切です。なぜなら、瞑想とは自分の思い通りにならない心を思い通りに使いこなすということが一つのテーマだからです。そのためにはまず、心は自分の自由には操作できないという事実をよく認識しておかなければなりません。そのとき初めて、「この好き勝手に動く心をどのように従えれば良いのか」という立場が生まれてくるからです。
 それでは、心についてさらに理解を深めていきましょう。

 

 

コメント

  1. turkce より:

    I blog frequently and I seriously thank you for your information. This great article has really peaked my interest. I am going to take a note of your site and keep checking for new details about once per week. I opted in for your Feed as well. Elora Abe Kayne

タイトルとURLをコピーしました